骨酒02|西蔵のマスター
松本駅を降りると、美が原の王ヶ鼻に向かって東西に大通りが走っている。
その道を300メートルくらい行ったところを左折し、さらに、200メートルほど行った右側に「西蔵(チベット)」がある。
「西蔵」のマスターはほぼ四十歳前後の山男である。山男といってもいかつい大男ではない。むしろきゃしゃな感じで、山形県酒田のお寺の長男である。某仏教系の大学を出たが僧侶にはならず、今はここ松本でちょっと体裁のいい居酒屋「西蔵」をやっている。
さすがに店の中は山の本でいっぱいで、もっぱらイワナ釣行の際に沢の地図を見せてもらっていた。
なぜこの店の名が「西蔵」かというと、これまでに数回行ったチベットが忘れられないからだという。
山男は料理がうまくて酒飲みである。
夕方、六時頃、まだ開店前に行ってしまうと「もう少しだから飲んで待っててよ」とカウンターに冷酒のビンとコップを置いて、自分は仕込みをやっている。
よく見ていると自分もちゃわんの冷酒をチビチビやりながらお通しを作っている。
この店には松本市内の山岳会の人たちが集まり山行前後の打合せ場所にしている。
ここに集まってくる山男・山女達はいたって堅実派である。四人で来てビールを三本注文して、七時から九時頃まで今度の山行について話しているが、この間追加注文は無い。
しかし、理解あるマスターは何も言わない。あるとき、山行の反省会と称して数人が集まり、前回の山行のお金の精算をやっていたが1000円以下の話ばかりである。
私たちのように二人で5000円払っている客など見たことがない。
山登りに素人の我々は、テレビでエベレストへ登った記録などを見ている時に、気になることがある。それは、「エベレスト登頂にはいくらかかるのか」ということだ。ある時、マスターに聞いてみた。「ごく質素に、最小限の人数で行って4000万かな」という。
この店にほぼ毎日来て、大ビール一本を小一時間かけて飲みマスターと山の話をして帰るMさんがいる。信州大学の六年生である。
親からの仕送りはすべて山につぎ込み、それでも足りずにビルの窓拭きをやって生計を立てている(ビルの窓拭きといっても外側である)
黒部ダムへ行ったことのある方は、トロリーバスを降りて展望台へ行ったと思う。あの展望台の窓拭きはさすがにこわかった、とMさんがいっていた。ロープがはずれれば、数百メートル下の黒部川へ落ちるから。
長野県の松本・大町と新潟県の糸魚川を結ぶ大糸線に信濃大町という駅がある。
黒部アルペンルートの長野県側の入口として有名である。
この大町の町中からクルマで高瀬川に沿って登り、大町ダムを過ぎて、葛(くず)温泉の少し手前に高い橋がある。この橋のたもとにクルマを置き、橋の横からほぼ四五度のガケを七十メートル下りると北葛沢である。
『ここは素晴らしい沢である。』
なぜって、本当に源流のイワナ釣りという雰囲気が味わえる沢だからである。ただし、私の釣果はあまり思わしくない。
Tさんと釣行したとき、わたしの少し下流で釣っていたTさんの横を猪の親子が水しぶきをあげて駈け抜けた。
カモシカもそうだが、沢の音しか聞こえない山奥で、ザザザッと藪の中で音がすると熊でも出たかと本当にドキッとするものである。(熊に出会った話はまた後日にする)
ガケをおりた所で川虫を採取し、はやる気持ちをおさえながら釣り登り始めると、一時間半でいつもそれ以上登れない滝に行き当たる。
滝というより一枚岩の上を水が滑り落ちている、というところでたった五メートルほどの高さだが、われわれ沢登りの素人にはどうやっても、何回来ても登れない。
沢を釣りながら登っていくイワナ釣りの楽しさは、下からでは見えない次のポイントはどんな所か、きっといい落ち込みがあって必ず釣れるはずだ、とワクワクしながら登って行くところにある。
この滝の上には、さぞ、素晴らしいポイントがあるに違いない、と思っていた。
いつも登れないこの北葛沢の小さな滝のことを、「西蔵」のマスターにいうと「短いザイルとハーケン一本あれば登れるよ。今度いっしょに行ってあげるよ」といつも言っていたが結局行かずに終わった。
この北葛沢の向こうは北葛岳、針ノ木峠、さらに黒部峡谷に落ち込んでいる。
名古屋へ来てからTさんに電話したら、マスターが店を閉めたという。
三階に住んでいた「西蔵」の大家のおばあさんが足を傷め、どうしても三階に住めず「西蔵」のある一階を住居にしたい、とマスターにたのんだのだそうだ。
マスターはこころよく店を明け渡してあげたという。
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