骨酒08|イワナ解禁の朝ー星空に手が届くー

 信州の渓流は、ほとんどが2月15日に釣りが解禁になる。

釣り雑誌や旅の雑誌に、渓流が半分ほど雪で覆われた景色の中で、イワナ釣りをしている写真が載っていることがある。私をはじめイワナ釣りの初心者があこがれる風景である。

しかし、現実には氷点下10度にもなるこの季節に沢に入るのは、地元に住んでいてもかなりの勇気がいる。

平成6年の3月はじめ、名古屋へ転勤が決まった私に「いよいよ最後だからえらく寒いけれどイワナへ行きましょうよ」とTさんが声をかけてくれた。

 松本平(信州では「平野」のことを「平・たいら」という)の東側、美ヶ原から流れくだっている薄川(すすきがわ)へ行った。例によって誰よりも早く沢へ入ろうと、4時をめざして薄川の上流へ向かった。高校野球の長野県代表で有名な松商学園の横から薄川の堤へ出て川に沿ってクルマを走らせる。

薄川の扇状地の集落・里山辺(さとやまべ)、その上流の入山辺(いりやまべ)を過ぎる。このあたりの風景は、横浜生まれで「いなか」のない私には想像でしかない「ウサギ追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」であり、ふる里を絵に描いたようなところだと思っている。

 この時期にクルマが入れる最終地点の扉温泉の上まで行き、道端にクルマを止め夜が明けるのを待つ。

扉温泉は信州のガイドブックにも載っている二軒宿である。

真っ暗な中でまわりの雪が青白く美しい。クルマの中で持ってきたポットの熱燗をチビリチビリやりながら暖をとる。黙っていると眠くなるので、クルマの外に出るといきなりズボッと膝上まで雪にもぐる。

………フッと夜明け前の空を見上げる。両側から尾根がかぶさり、天空の半分ほどが開けた空に満天の星。

星はこんなに大きかったのか、

星はこんなにたくさんあったのか、

手を伸ばせば10コくらい取れそうだ。

ほとんど横浜の空しか知らない私にとって、この星の大きさと数の多さは、首が痛くなるほど見上げていても飽きることがない。しかし、同時に顔と耳がちぎれるほど寒い。

 薄明るくなって、支度を整え沢に入ったがポイントまで行くのに、一歩一歩が膝まで雪に沈む。1時間弱ほど登ってかろうじて雪の間を水が流れているところを見つけ竿を出すが、まったく釣りにならない。

エサのブドウ虫がひと流しごとに凍って大きくなり、見る見るうちに氷のダンゴになってしまう。また、ミチイトについた水が凍ってしまい竿が思うように振れない。さらに、ウエーダ―の底が岩に凍り付いてしまい足が上がらず、つぎのポイントに移るために足場を確保しようとするが、雪でその下が岩なのか氷なのかわからない。氷を踏み抜けば割れて凍った川に落ちる。

昼前までやったが、もちろんこんなコンディションでは釣果はない。いや、こんなコンディションでやる技術がないだけだと悟った。

 しかし、あこがれの雪の中でのイワナ釣りの雰囲気だけは味わい、入山辺の道を松本市内に向かって下って来ると、フロントガラスの向こうに松本平の西側に連なる常念岳、乗鞍岳、槍の穂先などの北アルプスが、氷点下の空にシャキッとそびえ立っていた。

 この日が、信州松本での最後のイワナ釣行だった。Tさん、最後までお付き合いをありがとう。

トーク・パル 加藤隆夫の趣味と雑記の『五感を震わす快楽』

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