骨酒04|熊が出た

ウォルター・ウェストンは「日本アルプス」の命名者であり、日本アルプスで最初に登った山が常念岳だといわれている。信濃大町の山岳博物館には、当時、日本最初の山岳ガイドとされている上條嘉門次を伴って登山した写真や資料が残っている。

イワナ釣りに行って、熊に出会ったのはこの常念岳の本沢である。

あの時は、異例の4人、クルマ二台での釣行だった。いつもは、早朝五時には沢へ到着するように行くのだが、この日は十時頃に鳥川源流に近い沢へ着いた。クルマ二台を置き四人で沢へ入ったが、いつの間にか、私だけ一人になってしまった。

沢に入ってすぐ一匹を釣ったが、それ以降まったくアタリが無く、二時頃になったので、もうそろそろ帰ろうか、と沢から出て、落ち葉で足首までもぐる四〇度くらいの急斜面を登り始めた。クルマを置いてある所までは、雑木が生えている急斜面が一〇〇メートルくらい続いている。

息が切れて一気にはとても登れない。

二〇メートルくらい登り一息。

また登り始め、およそ半分くらい登ったところで二回目の休憩。今、登って来た斜面を見下ろした。

アレッ、何かいるな?三〇メートルほど下の今登って来た斜面に動物がいる。

このあたりでは、カモシカやサルはめずらしくない。

茶色っぽい動物が、こちらに尻を向け、首をこちらにねじっている。

動きはとてもゆっくり。

「熊だ」---------思わず声がでた。

一人言のように、熊だ、熊だ、熊だ、熊だ。

熊は黒いと思い込んでいたが、意外と茶色いんだな、が第一印象だった。

反射的に体を隠そうとしたが、あまり太くない樹木ばかりである。膝がガクガク震えているのが自分でもわかる。いつか地元の人が言っていた。熊は前足と後足の関係で、斜面を駆け上がるのはめっぽう早いが、駆け下るのは苦手だと。今の位置関係はどうだ、まずいではないか。この間、一〇秒か二〇秒だったと思うが、えらく長く感じた。

気づかれて、駆け上がって来たらどうなる。思わず後ずさりになり、視界から見えなくなった所で、振り向き、一気にガケを四つんばいになりながらよじ登った。足が落葉にもぐり込み、思うように登れないが、とにかく、必死の思いでガケの上までたどり着いた。

「おい、熊だ、熊がいたぞ」と、仲間に叫ぶはずが、クルマも仲間も誰もいない。

一体、どうなっているんだ。

---------あとでわかったのだが、相前後して沢から戻って来たはじめの二人は、今日はもうだめだ、と思いクルマで帰った。後から戻って来た後の一人は、「先に帰る」とのメモを見て、私も最初の二人と一緒に帰ったと思い込み一人で帰ってしまったという。

何ということだ。

こんな山の中で一人になってしまった。

少なくとも、人が住んでいる須砂渡(すさど)まで山道で五~六キロくらいあるだろう。

今から歩いて行ったら日が暮れてしまう。三〇分ほどたったころ、さらに上流の林道から軽トラックの二人連れが来た。「釣れましたか」と聞かれたが、話すことがいっぱいあって、すぐに言葉にならない。

イワナは一匹しか釣れないこと、

熊に出くわしたこと、

仲間が先に帰ってしまったこと、

を、どう話したのかよく覚えていない。

「それじゃ、松本まで送りますよ」というが熊のことは信じていない様子。

軽トラの二人は高速長野道で岡谷へ帰るというのでJR豊科(とよしな)駅で下ろしてもらうことにした。

「すみません、助かりました。ありがとうございました。これ取っておいてください」と二〇〇〇円出したが「いいよ、そんなもの」といって笑って帰って行った。

豊科駅でキップを買おうとしたとき、ハタと我が身の姿に気がついた。

沢で釣っていた時の姿そのままである。

ウエーダー(釣用の腰までの長靴)、背中にザック、腰にビグ------------。着替えや靴は仲間のクルマのトランクの中だ。

仕方なくこの姿で、電車に乗り、松本で降りタクシーで社宅へ帰った。

家に着いて、しばらくすると仲間のTさんがすっ飛んで来た。

「とにかく熊がいたんだ、熊だよ」というが本人は「置いてきぼりにしてすみません。あのメモが------------」ばかりで、熊の話は本気で聴こうとしない。

翌日、四人が一同に会したが、話は私の置いてきぼりのことばかりで、いっこうに熊の話題にならない。

’熊に出会った話’は、その後、会社の仲間、飲み屋「まろ」の主人、「チベット」のマスター、仲のいいお客様、Lionsの仲間、東京の親友の加藤隆夫君、女房と子供たち、両親----------誰に話しても、みな「そう」というだけである。

みんな心の底では「熊なんかそう簡単に出会うものですか。イノシシか何かと見間違えたのよ」と思っているに違いない。

信州の釣道具屋には、熊避けのバクチクや鈴を売っているが、沢でバクチクを鳴らしたのではイワナが逃げてしまうだろうし、鈴では頼りない。ラジオという人もいるが、山奥では電波が届かず何も聞こえない。

熊はいたのである。

私はオオカミ少年(おじさん)ではない。


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